2年前、リコーダーとコルネット奏者、指揮者の濱田芳通は第53回サントリー音楽賞に選ばれた。濱田がライフワークとしてきた16世紀末に日本に渡来したいわゆる南蛮音楽や、17世紀のリコーダー音楽《笛の楽園》をテーマとしたコンサートシリーズ、そしてバロックのオペラ上演、ヘンデルの《メサイア》などが高く評価されての受賞である。

濱田は音楽一家の4代目。曾祖父は東洋音楽学校(現東京音楽大学)の創立者鈴木米次郎氏で、父は指揮者の濱田徳昭氏(1929~86)。様々なオーケストラや合唱団を指揮すると同時に、日本オラトリオ連盟を創設、主にオラトリオを国内外で演奏してその分野の普及に努めた。そのオーケストラでは皇太子時代の徳人天皇もヴィオラ奏者として参加していた。
こうした環境は濱田が音楽家として成長するうえでどのような影響をもたらしたのだろうか。「父は自分の活動で手一杯でしたから、特に英才教育を受けたわけではありません。楽器をやるならちゃんとした先生についた方がいいというくらいで、指揮も一度も教えてもらったことはありません。一応ピアノもヴァイオリンもやりましたが、最終的にトランペットを選びました。小さい頃から父のオーケストラや合唱の練習は見ていましたし、父の演奏会には必ず連れていかれました」
父から聞いたことで芳通がとくに記憶に残っている話がある。若き日の父徳昭と武満徹の交流のエピソードだ。「父は少年時代から作曲を諸井三郎、チェロを斎藤秀雄に習っていて、父の弟の徳洋もチェロを習っていて友人に武満徹がいた。武満が音楽をやりたがっていたので、弟がうちに連れてきて、父が作曲の手ほどきをした。父は17歳、武満が16歳の頃のことだと思います。ある日の早朝、父は武満にたたき起こされ、『お兄ちゃん、こんな音が聴こえる』と言ってピアノを弾いたそうです」
当時、武満少年は一つ年上の徳昭のことを、親しみを込めて「お兄ちゃん」と呼んでいたのだ。「その時に武満がピアノで奏でた音楽は、その後の彼の作品と同じような音楽だったそうです。父は世の中には天才がいるものだと作曲をあきらめ、指揮者の道を歩むことになったのです」
濱田と古楽器の出逢いはどのようなものだったのだろうか。徳昭は1975年にオーケストラ、バッハ・コレギウム東京を結成して音楽監督を務めている。これは当初、現代の楽器だったが、その後古楽器に代えた。それは芳通青年の音楽活動に影響されてのことだったのかもしれない。
「僕は中学生の時にブラスバンドをやっていて、アンサンブル・コンテストで曲を探しているうちに、ルネサンス音楽と出会いました。ホルボーンやガブリエリなどの金管合奏曲ですが、僕はこういう音楽が好きなんだと思いましたね。そのうちに、これらの曲は現代の楽器のために書かれたわけではないことを知ったのですが、当時の日本では古楽器をやっている人は少なかった。ところがその後入学した高校の音楽の先生が、ドイツのリコーダー奏者、ハンス・マルティン・リンデの弟子の矢沢千宣先生だったのです」
濱田が十代だった1970年代、フランス・ブリュッヘンやリンデらが来日して日本でもリコーダーがブームになっていた。やがて海外で学びたいという気持ちが芽生える。父は音楽家の道に進もうとする息子に、「こんなに素晴らしい職業はない」と応援する一方、海外留学については、「日本で上手になってから行きなさい」と言っていたという。「僕は高校を出てすぐに海外に行って、どこの国の人だか分からないような音楽家になりたかったんですよ。でもそれではだめだと。父は海外に留学しても日本のためにやらなければ何にもならないともよく言っていました」
最終的に桐朋学園大学に入学。オランダでブリュッヘンのもとで学んで帰国したばかりの花岡和生にリコーダーを師事した。そして大学卒業後スイスのバーゼル・スコラ・カントルムに留学して中世の音楽理論を専攻すると同時に、リコーダーとコルネットを学び、ブルース・ディッキーやルネ・ヤーコプスらと共演を重ねて経験を積んだ。そして日本でアントネッロを結成。リコーダー、コルネット(ドイツ語でツィンク)の名手として活躍するが、同時に合唱団を組織してオラトリオを指揮するようになった。濱田は「気が付いたら、父と同じようなことをやっていましたね」と言う。
濱田芳通の音楽の特徴は3つあると思う。オフ・ビートとアゴーギクと即興性。それが濱田の音楽ならではの、強い推進力や躍動感、ダイナミズムを生み出していて、サヴァールやヤーコプスの音楽にも通じるものだ。「音楽の本質を追求しているうちにそこに行きつき、次第に強固なものになったもの」と濱田は言う。「いろいろな考え方があると思いますが、僕はオフ・ビートを主体としたリズム感による演奏が歴史的にもあるべき姿だと思っています。そして、このビート感はリズミックなだけでなく、自然なルバートを生み出すことができるのです」
濱田は長年ライフワークとして、天正遣欧使節団や南蛮音楽に取り組んできた。スペインとポルトガルの大航海時代の1534年、九州の種子島にポルトガル人が漂着、初めて日本に鉄砲がもたらされたとされる。その後、キリスト教宣教師が日本に上陸し、南蛮文化が日本に流入した。それはその後の日本における、キリスト教の布教や南蛮文化の流入の切っ掛けともいえる出来事だった。音楽も同様だ。日本ではキリスト教徒たちが450年も前に聖歌を歌い、鍵盤楽器やヴィオラ・ダ・ガンバやリュート、リコーダーなどの楽器に親しんでいた(その後、豊臣秀吉や江戸時代のキリスト教禁令でその文化は途絶えた)。
そして1582年に当時の日本のキリシタン大名によって4人の日本人の少年を始めとする天正遣欧使節団がヨーロッパに向けて出発し、足掛け8年に及ぶ旅行でローマ法王やスペイン国王フェリペ2世と謁見した。濱田はこの天正遣欧使節団がどんな音楽と出会い、当時の西洋人が彼らの音楽にどう反応したかに深い関心を寄せている。
「日本の伝統音楽の中にも、言葉や料理などと同じように、当時の西洋音楽の片鱗が見つけられるかもしれません。実際、スペイン、ポルトガルのルネサンス音楽の中には、日本民謡や童歌にとても似たものがあります」
この8月にサントリーホールで行われる音楽賞受賞記念コンサートでは、ヘンデルのオペラ《リナルド》を取り上げる。これは中村敬一の演出、西川一右の舞踊等を入れたセミステージ形式での上演になるという。タッソーの原作を基にした中世の十字軍の物語で、エルサレム奪回を巡ってキリスト教軍とサラセン人が戦う。〈泣かせてください〉などの名アリアで知られる人気オペラだ。
「ヘンデルのオペラのレチタティーヴォ・セッコは、現在の解釈では、『喋り』に近いスタイルで演奏されることが多いと思いますが、初期バロックのオペラにおけるレチタール・カンタンドのような、より『歌』の要素が強い感じに仕上げたいと思います。そのことにより、音価は書かれた通り、もしくはセッコとは逆方向にデフォルメされることになり、ときには現代のラップのようなリズムも生まれます」
濱田は、これまでのキャリアにおける特筆すべき出来事について、まずは2013年から始まったカッチーニやモンテヴェルデイの三つのオペラ、ダ・ヴィンチのオペラ作品を上演するプロジェクト、オペラ・フレスカを挙げる。「また個人的には、コルネットを始めたての頃にコンチェルト・パラティーノと共演できたことが嬉しかったですね。ルネ・ヤーコプスのオーケストラには何度も参加しましたし、アンサンブル・ラ・フェニーチェという初期バロックを専門とする管楽器のアンサンブルとカステッロなどの録音に参加したことも大切な出来事です。それからトランペット奏者の日野皓正さんやマンハッタン・ジャズ・オーケストラなど、素晴らしいジャズの音楽家たちと共演したことです」
今年2024年にアントネッロは結成30周年を迎えた。今後どのような曲を取り上げたいかと訊くと、「今後もオペラ創成期から古典派までのオペラ、そして引き続き南蛮音楽をテーマとした活動、そしてもちろんリコーダー、コルネット奏者としての演奏も行っていきたい」のことだった。是非とも指揮者としてオーケストラなど他の団体との共演も行なってほしいと思っている。
濱田芳通とアントネッロは、8月17日にサントリーホールでヘンデルの《リナルド》を演奏する。
提供:サントリーホール
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